ひまわりプロジェクト第3弾*

               西日本入国管理センター訪問

        参加者:佐藤ゆきよ、相川伸、山坂美穂(ひまわり)

                     森本晃、寺井百合子、幸長由子(関西NGO大学)

                     松浦(シナピス)

           日  時:2003年1月17日

 

1月17日、私たちは関西NGO大学のメンバーとシナピスという難民支援を行っている

団体の松浦さんとともに、茨木市にある難民収容所の西日本入国管理センターを訪れ

た。今回は松浦さんの知人に会うということで、センターでそれぞれ用紙に必要事項を

記入し、身分証明書の提示を求められた。身分証明書がない場合面会はできないそう

だ。荷物は全て預けさせられ通された面会所はガラスで仕切られ、まるでドラマで見た

ような物々しさだ。そこで私たちはまずマウンマウンさん、そしてスルタン・アリさん、ア

ジムさん、ティバシ・フセインさんの3人組とそれぞれ30分ずつ面会をしお話を聞かせ

てもらった。

 

<マウンマウン(ミャンマー人)>

アウンサンスーチン率いるミャンマーの最大政党・国民民主連盟(NLD)のメンバーで2

001年に日本に来るがビザを所持しておらず、すぐにつかまり収容所へ送られる。

 

Q.収容所では何をして過ごしていますか?

−時間がもったいないので日本語の勉強をしている。 (部屋についているテレビや、友

人からもらった日本語/ミャンマー語 辞書で)

 

Q.どうやって日本に来ましたか?

−2001年10月9日に船で韓国経由で神戸港に入るが、ビザを所持し ていなかったた

めすぐに逮捕された。

 

Q.1人で来たのですか?仲間は?

−12人で来た。他の人は問題ないので帰国させられたが、自分は政府に反対するNLD

のメンバーなので帰国すると政府に捕らえられ てしまう。

 

Q.なぜ他の国ではなく日本に来たのですか?

−最初はタイに逃れ、そして1998年にビザが取りやすく安い韓国へ行く。そこで2000

年に難民申請をしたが、年末まで返事がなく、捕まればミャンマーに強制送還させられる

恐れがあるので韓国に近い日本へと来た。また日本は韓国よりは難民を認めてくれるの

で。(韓国 は0人)

 

Q.どのくらい収容所にいますか?

−1年以上。他の人(パスポートやビザの不所持者)は強制送還させられるが難民の人

はなかなか帰られないので。

 

Q.日本はどうですか?

−船の中で捕まったので収容所しか知らない。

 

Q.収容所の生活に何が一番欲しいですか?

−自由が一番欲しい。それから易しい、もしくはふり仮名付きの日本語の本が欲しい。

 

Q.家族はいますか?

−ミャンマーに母と兄がいる。公式には手紙はやりとりできないが、強制送還で国に帰る

人に託している。母は自分が日本にいることは知っているが、心配させたくないので捕ま

っていることは知らせていない。

 

Q.家族に会いたいですか?

−もちろん会いたいが、国に帰れば捕まってしまう。難民申請が認められてビザを取得で

きたら家族も日本に来て会うことができる。誰でも自分の国で、自分の言葉を喋り、自分

の家族といたい。

 

Q.どうしてNLDに入ったの?

−政府はとても悪いので自由も人権もない。1人じゃ活動できないがグループだとパワー

があり、デモなどの活動もできる。

 

Q.各国に散らばるNLDはどんな活動をしているの?

−海外でのNLDの活動は国ごとにやっている。主にデモなどをし、それをビデオなどに

記録し、ミャンマー政府に送っている。日本にも東京に事務所があり40人ぐらいいる。

 

<マウンマウンさんの略歴>

NLDメンバーとしてミャンマーで活動→1997年タイへ逃亡→1998年、韓国へ→200

0年、    韓国にて難民申請→申請が認められず2001年10月9日、日本へ→ビザ不所

持で捕まり収容所へ、今に至る。

 

話を聞いたマウンマウンさんは、はじめ面会所に現れたとき、この人が本当にNLDのメ

ンバーなのかと疑ってしまうほど優しい表情をした普通の青年だった。しかし、NLDとし

て活動しているときの写真を見せてもらうと、その中にうつる彼は同じ人とは思えないほ

ど鋭い目をしていた。政府への憎しみの気持ち、闘志がそうさせたのだと強く感じた。

 

<ティバシ・フセイン(クルド人)、アジム(アフガニスタン人)、スルタン・アリ(アフガニスタ

ン人)>

 

アジムさんとアリさんはタオルをターバンのように巻いた姿で現れた。ティバシさんは日

本語がかなりお上手ということで、今回アジムさん、アリさんの通訳をしてくれることとな

った。アリさんとアジムさんはバーミヤンに住むハザラ人で、タリバンの迫害の対象とな

っている。アリさんは難民申請をするが拒否され、退去命令が出た。

 

Q.なぜ日本に来たのですか?

−テ:フランスから日本に来た。日本が一番安全で優しいと思ったから。

 ア:私も同じ。日本に住みたいと思った。

 ス:私も同じ。最初日本人は優しいと思ったが、今はこんなところに入れられて分からなく

なってきた。

 

Q.どのくらい収容所にいますか?

−テ:9ヶ月。長いがしょうがない。

 ア:明後日で2ヶ月。

 ス:明日で3ヶ月。

 

Q.アリさんとアジムさんが少し日本語を話せるのはどうしてですか?

−ア・ス:5年ぐらい日本に住み、生野区や東大阪で働いていた。ビザがきれ、オーバース

テイなので捕まるが難民なので収容所へ。

 

Q.工場で働く日本人の対応は?

−ア:とても優しい。親切にしてくれた。

 ス:同じ。中国や韓国は冷たかった。

 

Q.帰国したらどうなりますか?

−テ:コミュニズムのグループに入っているので帰国すると殺される。

 ア・ス:国が安全になれば帰りたいがまだタリバンがいる。ハザラ人(モンゴル系で日本人

に近い顔立ちをしている)はいつも虐げられ、歴史的にずっと迫害を受けている。パストゥー

ン人に虐殺される。

 

Q.毎日どんなことをして過ごしていますか?

−ア:何もすることがない。面会はうれしい。違う顔を見るのが新鮮。土日や新年(12/28〜

1/6)は面会ができず退屈で寂しかった。

 

Q.ここの食事はどうですか?

−ア・ス:入管の食事は不十分でパンなど。いつもお腹がすく。差し入れならラーメン(韓国の

辛いもの)がうれしい。豚肉エキス入りのものは宗教上食べられない。

 

Q.国ではどんなことをしていましたか?

−ア:バスのドライバー       

 ス:農家、穀物類を作っていた。戦争により生活が悪くなった。悪いのはパストゥーン人。

 テ:プラスティックの会社の経営。仕事なら国にあり、収入もある。命が危ないので日本に

来た。

 

話の中で幸長さんがアジムさんに現地の言葉で書かれた絵本を手渡し、とても喜んでい

た。アリさんは字が読めないので写真(特にバーミヤンのもの)がうれしいそうだ。

 

最後に松浦さんに収容所内の生活についてお話してもらった。

<収容所内の生活>

・朝の点呼を済ませれば夜の消灯まで何もすることがない。

・一部屋は6・7人。多くて10人くらい。

・同国人、同エリアは同室にされない(暴動などを起こさないように)

・テレビはあるが日本語のみで殆どの人が理解できない。

        刑務所と違い労働させられることがないので何もすることがなく、ヘタをしたら一日中

        しゃべらないこともある。それで3ヶ月ぐらいで精神状態が悪くなる人が多い。自殺未

        遂も多い。

 

<難民収容所を訪れてみて>

 

・佐藤 ゆきよ

面会室で会った4人の男性の寂しそうな目が心に残りました。その中の一人、私と同世

代のミャンマーの方が言ったのは「今まで楽しかったことは無い。自由が欲しい」民主化

運動をし、政府から追われて来た男性です。私はこれからこの叫びを忘れる事は無いと

思います。

 

・山坂 美穂

今回この西日本入国管理センターを訪れ、いろんなことが新鮮で衝撃的だった。普段は

なか訪れる機会のない場所だが、世界にある様々な政治的、社会的問題の縮図のよう

な場所に思えた。私が今回強く感じたことは、このように私たちの生活のすぐそばに「問

題」があるにもかかわらず、それに目をそむけ、気づこうともしない人がいかに多いかと

いうことである。確かにこれらの問題は途方もなく複雑で私たちにできることは何もない

ように思える。しかし今回お話を聞いた4人が繰り返して言っていたこと、それは「面会

が一番うれしい」である。つまり彼らに直接会って話を聞く、知ろうとすること、たとえ小さ

くても勇気を持って一歩踏み出すこと、それが大切なのではないだろうか。

 

                        (報告書担当:山坂 美穂)

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